VERDI 1836 |
初演:未上演
台本:アントーニオ・ピアッツァ Antonio Piazza
原作:
ヴェルディが最初に発表したオペラは1839年の《オベルト》です。しかしそれより前に、ヴェルディは間違いなく《ロチェステル》という作品を完成ないしはそれに近い状態にまで作り上げているはずです。
もっともこの作品に関しては、ずっと後年になってからのヴェルディの回想しか情報源がなく、不明な点が多く残されたままです。
故郷ブッセートを離れミラノに向かったヴェルディだったが、肝心のミラノ音楽院への入学に失敗してしまった(主として年齢制限のため)。やむなくヴェルディは、ナポリ出身でスカラ座のマエストロ・アル・チェンバロ(歌唱指導者)を務めたヴィンチェンツォ・ラヴィーニャのもとで個人的に音楽を学ぶことになった。この修行は3年間続くことになる。
1834年、ヴェルディはラヴィーニャからアマチュアの合唱団ソチエタ・フィラルモニカを紹介され、ハイドンの《天地創造》上演に関わった。伴奏ピアニストとして、さらには指揮者として働くうち、この団体の指導者であるピエトロ・マッシーニがヴェルディの才能を見抜いて高く評価し、ヴェルディにこの団体で上演するオペラの作曲を依頼したようである。
一方、ヴェルディにとっては、ミラノでの修行を終えた後の定職を探すことも重要だった。苦労の末、彼は1836年3月にブッセート市の音楽教師に就任することができた(これは彼を応援してきたブッセートの人々への恩返しの意味も大きい)。そしてこの年の5月には、最大の支援者アントーニオ・バレッツィの娘マルガリータと結婚。全ては順調に思えた。だがヴェルディが地方小都市ブッセートに落ち着くことは、ミラノの音楽界と縁が切れてしまうことでもあった。それでもヴェルディは、ブッセートに戻ってからもマッシーニと連絡を取り合い、オペラの作曲を続けていた。
このオペラについての情報は非常に乏しい。マッシーニに宛てた手紙から、題名が《ロチェステル Rocester》、台本はアントーニオ・ピアッツァ(註)が書いたものと分かっているくらいだ(一方、1871年のヴェルディの手紙では、ピアッツァの書いた台本の題名は《アミルトン卿(ハミルトン卿) Lord Hamilton》となっている)。1836年9月の手紙には、このオペラがほぼ完成したという報告がみられる。ところがこの同じ9月、恩師ラヴィーニャが亡くなってしまい、ヴェルディはミラノでの重要な後ろ盾を失ってしまった。またマッシーニもソチエタ・フィラルモニカを離れていた。ヴェルディがミラノでオペラを上演する見込みは絶望的になってしまったのだ。彼は地元パルマでの上演を模索するが、実現しなかった。
さて、この作品が作られた経緯は概ね次のようなものです。
年齢制限のためミラノ音楽院に入学できなかったヴェルディは、ヴィンチェンゾ・ラヴィーニャのもとで個人的に音楽を学んでいました。
このラヴィーニャがヴェルディにミラーノのアマチュアの合唱団(といってもなにせミラーノですから水準はかなりのものだったと思われます)、ソチエタ・フィラルモニカを紹介したようです。ここで彼はハイドンの「天地創造」など大規模な声楽作品の下準備を引受け、その能力を高く評価されたようです。
1835年7月、ヴェルディはミラーノでの修行期間を終え、故郷ブッセートに戻ることになります。ここで彼はこの田舎町の音楽監督として働くことになっていました(彼はこの間マルゲリータ・バレッジと結婚しています)。
しかし同時に彼は、ソチエタ・フィラルモニカの指導者、ピエトロ・マッシーニからオペラの依頼を受けていたようなのです。このことはヴェルディの手紙からはっきりしています。そしてマッシーニに宛てた手紙の一通に、はっきりと題名と台本作家の名が見て取れるのです。そして1836年の9月にはほぼ完成したと手紙に書いているのです。
マッシーニは「テアトロ・フィロドラマーティコ」という劇場の監督をしていたので、おそらくヴェルディとしてはここで彼の処女作を上演したかったのでしょう。
しかしこの計画は様々な障害にあってしまいます。
まず、田舎町の定職による拘束は、ミラーノ進出の大きな妨げとなりました。当時は新作オペラの上演の下稽古は作曲家が行うのが当然で、アマチュア主体の劇団を指導するにはかなりの時間が必要でした。しかしヴェルディがそれほど長い期間ブッセートを離れる訳にはいきませんでした。
かといって、ミラーノ以外に何も人脈のない田舎者ヴェルディには他の場所で自作を上演することなぞできませんでした。
そしてそうこうしているうち、マッシーニが劇場をやめ、ラヴィーニャが亡くなってしまったのです。もはやヴェルディは「ロチェステル」をミラノで上演するという夢まで打ち砕かれてしまったのです。そしてついにこの作品は上演されることなく埋もれてしまったのです・・・。
さて、一体この「ロチェステル」がその後どうなったのか。
これは次項をごらん下さい。
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1862 | 1865 | 1866 | 1867 | 1869 | |
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1887 | 1893 | 1894 |