Verdi 1848 |
IL CORSARO
初演:1848年10月25日、トリエステ 作曲 1843年、スカラ座での《ナブッコ》と《第一回十字軍のロンバルディア人》の大成功から、ヴェネツィアはフェニーチェ劇場から新作依頼を受けた。ヴェルディは、シェークスピアの『リア王』などと一緒に、バイロンの『海賊』に興味を示したが、この時は結局ユゴー『エルナーニ』をオペラにすることになった。 次に『海賊』のオペラ化が浮上するのは、1845年のことである。直接のきっかけは、出版社ルッカからの依頼だった。ルッカ社は、元々リコルディ社の従業員だったフランチェスコ・ルッカ(1802−72)が、1825年に独立開業した新興の会社だった。フランチェスコとその妻ジョヴァンニーナ(1810頃−94)は、メキメキ頭角を現しているヴェルディに強い関心を示したのだ。 当時のヴェルディは、リコルディ社が事実上の担当出版社だった。ヴェルディは、処女作《オベルト》から4作目の《第一回十字軍のロンバルディア人》までの全ての作品をスカラ座で初演していた。リコルディ社は、スカラ座で初演された新作オペラに関して、独占して出版できる権利を持っていた。したがって、自然とヴェルディとの関係を築くことができた。 ところが、このヴェルディ=スカラ座=リコルディ社という関係は、1844、45年頃に破綻を来してしまう(※1)。一般的には、1845年2月15日にスカラ座で初演された《ジョヴァンナ・ダルコ》の出版権を、メレッリがヴェルディに無断でリコルディ社に譲渡したことが原因ではないかと推測されている。本当にこれが理由かどうかは分からないが、ともかく、ヴェルディは、メレッリともスカラ座ともリコルディ社とも訣別するつもりでいたようだ。《ジョヴァンナ・ダルコ》初演直後の、3月12日付けのルッカ社への手紙で、ヴェルディは、1848年のカーニヴァル・シーズンにイタリアの劇場へ新作を提供することで暫定合意をしている(この条件は後に若干内容が改められる)。間違いなく、《ジョヴァンナ・ダルコ》の初演を巡って、何かヴェルディを立腹させることがあったはずだ。もっとも、この一件だけでなく、それ以前からヴェルディとメレッリの間に何かトラブルがあったとしても不思議ではないだろう(※2)。 このヴェルディとメレッリの不和は、ヴェルディと接触する機会を窺っていたルッカ社に、絶好の機会を与えることとなった。1845年1月には、まず新作を一つ作ることで大方合意した。これは、翌年の春にヴェネツィアのフェニーチェ歌劇場で初演する新作で履行されることになり、やがて題材は《アッティラ》に決まった。そして1845年10月、ヴェルディはルッカ社と、さらに2作の新作を提供するという契約を結んでいる。 ちょうど同じ頃、ロンドンからヴェルディに新作依頼が舞い込んで来た。1842年から、ロンドンの女王陛下劇場の興行主を務めていたベンジャミン・ラムレイが、ヴェルディにロンドンのための新作を強く希望していたのだ。ルッカ社は、この申し出と自分たちへの新作を結び付けることにした。大都市ロンドンでは優れた歌手が期待できたため、ヴェルディは再びバイロンの『海賊』のオペラ化を思い浮かべた。しかしルッカ社は『海賊』に強い難色を示していた。ロンドンで上演するイタリアオペラに、英国文学を題材として取り上げることに抵抗があったのだろう。しかしヴェルディは反論に耳を貸さず、『海賊』に強く執着している。ヴェルディは台本作家に、《エルナーニ》で協力したフランチェスコ・マリア・ピアーヴェを選んでいる。ヴェルディとピアーヴェは、1845年暮れから1846年の3月まで、《アッティラ》初演のためにヴェネツィアに滞在しており、この時にオペラの概要についてヴェルディ主導で詳細が検討されたと考えられている。シカゴ大学とリコルディ社によるクリティカル・エディションの序文によると、この時、まず詳細なシナリオが作られたそうだ。それを元にして、1846年2月(※3)から7月の間のどこかで台本が書き上げられたと推測されている。 ここまでは、ことは順調に進んだ。 《エルナーニ》初演の後から、ヴェルディは一気に多忙になり、同時に健康を害してしまった。1845年12月に《アッティラ》初演準備のためヴェネツィア入りすると、ヴェルディの体調は悪化の一途を辿った。持病のリューマチのみならず、胃腸炎がヴェルディを苦しめた。1846年3月17日、《アッティラ》の初演が行われた。3公演に立ち会った後、ヴェルディは3月22日にミラノに戻る。彼の健康は、医者から6ヶ月間の安静を言い渡されるほど衰えていた。さすがにロンドンの契約は、キャンセルせざるをえなかった。 1846年の春夏と、ヴェルディはゆっくり休養を取っている。1846年7月、ヴェルディは、友人のアンドレア・マッフェイと共に、レコアーロという温泉地に飲泉療養をしにいっている。マッフェイは文学、特に独英仏の文学に造詣が深かった。この滞在で、ヴェルディは大きな刺激を得たことだろう。またヴェルディは、マッフェイがイタリア語訳をしたばかりのシラー『群盗』を知ることになる。 夏の終わりにミラノに戻ったヴェルディは、まず春に契約したフィレンツェ向けの新作の準備を始める。1846年の秋になって、ラムレイとルッカ社が、改めてロンドン向けの新作を依頼してきた。ヴェルディはフィレンツェに《マクベス》を、ロンドンに《群盗》を作曲することを決め、10月から《マクベス》の作曲を開始。これは1847年3月14日に、フィレンツェのペルゴラ劇場で初演された。その後すぐさま《群盗》の作曲に着手、6月5日にロンドン入りし、7月22日にロンドンの女王陛下劇場で《群盗》を初演。この《群盗》で、ヴェルディはルッカ社への二つ目の契約の履行を果たした。 《マクベス》と《群盗》を作曲している時期、『海賊』のオペラ化についてのヴェルディの心情には揺れが見られる。温泉療養から戻った直後に、ピアーヴェが《海賊》の台本を他の作曲家に譲って良いかという問い合わせをしているのだが、これに対してヴェルディは1846年8月27日付けの手紙で烈火のごとく怒っている。「『海賊』は、とても気に入っていて、いろいろ考えを巡らせて来たものだ。そして君自身、いつも以上に配慮しながら韻文台本を作成したのだろ[…]私が君に譲歩するとでも思っているのかね?医者に行って、頭を調べてもらうんだな!」。しかし、1846年12月4日付けのラムレイへの手紙では、《海賊》の台本について「生彩を欠いていて、劇的効果に乏しいと感じた」と述べている。どちらが本音なのかはともかく、彼はロンドンのためにも、他の劇場のためにも、《海賊》を自ら再び取り上げようとはしなかった。 ロンドンで《群盗》の初演に3回立ち会った後、ヴェルディは1847年7月27日にパリに到着。この後、ヴェルディは何度かイタリアには戻っているものの、基本的にはパリに腰を据え、結局パリ滞在は、2年近くにも渡った。その背景には、後に妻となるジュゼッピーナ・ストレッポーニとの恋愛が深まっていったことがある。そしてもう一つの理由が、パリのオペラ座から依頼された《ジェルザレム》(《第一回十字軍のロンバルディア人たち》の全面改作)の作曲。さらにもう一つの理由は、ルッカ社から離れていたかったということだ。彼らは契約した三作目の履行をしつこく迫ってきた。パリで《ジェルザレム》の作曲を進めていた1847年9月頃 ヴェルディはルッカ社に対して、違約金を払うことで契約の解除を求めている。しかしこれは完全に拒否されてしまう。ヴェルディは別の題材(※4)をオペラ化することも打診するが、ルッカ社からは、彼の希望と無関係の台本(※5)が送られてきただけだった。ヴェルディは怒りながらも、1847年10月にピアーヴェの《海賊》の台本を再び取り上げ作曲することを決めている。おそらく1847年11月26日に《ジェルザレム》が初演されてから作曲に着手したのだろう。つまり《海賊》はパリで作曲をしていることになる。この後1848年の2月頭までかけて作曲している。 ※1 この《ジョヴァンナ・ダルコ》の後、1869年の《運命の力》改訂版までの24年間、ヴェルディはスカラ座との直接の関係を断っていた。スカラ座への新作は、1887年2月の《オテッロ》まで、実に42年もの間が開いている。 ※2 実際にヴェルディとメレッリのトラブルが伝えられている。1844−45年のカーニヴァル・シーズンの開幕公演は、《ロンバルディア人》の再演だった(初日は1844年12月26日)。主要キャストにはスターが揃っていた。しかし、オーケストラと舞台全般にはかなりの問題があった。リハーサルに立ち会っていたヴェルディはメレッリに改善を要求するが、拒否されてしまった。怒ったヴェルディは、初日に劇場に現れなかったという。これと同様のトラブルが、さらに数ヶ月前にあった可能性もある。1844年9月3日に、《エルナーニ》のミラノ初演がスカラ座で行われているが、この時、ヴェルディが立ち会っていた痕跡が今のところ見つかっていない。たしかにこの時期、ヴェルディは、11月にローマで初演される《二人のフォスカリ》を作曲している最中ではあった。しかしヴェルディはミラノでの《エルナーニ》の直前、8月11日からのベルガモでの《エルナーニ》の上演には立ち会っているのである。ヴェルディのような、自作の上演に細心の注意を払う作曲家が、ミラノという極めて重要な都市で自作が初めて上演される時に立ち会わないというのは、珍しいことである。 ※3 クリティカル・エディションのヴォーカル・スコアの序文では、「1848年2月」となっているが、これは明らかに誤植。 ※4 一つは、オーストリアの劇作家、フランツ・グリルパルツァー(1791−1872)の悲劇『祖先の女』(1817年)。ヴェルディは既に1844年頃、《エルナーニ》の後に、この題材のオペラ化を思いついており、また1846年にフィレンツェから依頼が来た時も、『祖先の女』のオペラ化について検討している。もう一つは、フェリーチェ・ロマーニの台本『メデア』。これについては、ヴェルディが具体的にどれを示していたのかは分からない。ロマーニは、1813年にジョヴァンニ・シモーネ・マイール(ドニゼッティの師匠)に《コリントのメデア》という台本を提供している。この台本は、プロスペロ・セッリという作曲家によって再度オペラ化され、1839年2月4日にローマのアポッロ劇場で初演されている。ヴェルディが言及しているのは、この台本かもしれない。 ※5 送られてきたのは、ジャッケッティという人物による台本『ジュディッタ』。 ・初演とその後 1848年2月12日、パリにいるヴェルディは、ミラノにいる弟子のエマヌエーレ・ムツィオに総譜を郵送している。ムツィオがそれを転送、2月中にはルッカ社に届いていただろう。ルッカ社がいつ《海賊》を初演するつもりだったのかははっきりしていないが、この時期に総譜を手に入れていたということは、春から初夏にかけて初演するつもりだったのではないだろうか。 ところが、1848年はヨーロッパの動乱の年だった。フランスの2月革命に端を発して、ヨーロッパ中が革命騒ぎに揺れていた。イタリアでも3月からオーストリー支配への反乱が各地で勃発した。夏までには鎮圧されたが、そのために《海賊》の初演は数ヶ月先送りされてしまった。結局、トリエステのグランデ劇場(現在のジュゼッペ・ヴェルディ劇場)で、10月25日に初演されることが決まった。 一方、ヴェルディは《海賊》が完成した後もパリに残っていた(彼は既にストレッポーニと同棲していた)。結局、ヴェルディは10月の《海賊》の初演のためにトリエステに行くことはなかった。これはヴェルディが《海賊》に関心がなかったことの表れであると、一般的には理解されている。たしかに、土地売買のために4月から5月にかけてイタリアを一時的に訪れていたヴェルディが、6月にパリに戻って、また8月頃にトリエステに向かうというのは考えづらく、ヴェルディは当初からトリエステでの《海賊》の初演に立ち会うつもりはなかったと思われる。しかし一方で、ヴェルディは、初演直前の10月6日付けの手紙で、グルナーラを歌ったマリアンナ・バルビエーリ=ニーニに詳細な助言をしており、その熱意ある文面からは、彼が《海賊》に完全に興味を失ってしまったとはとても思えない。おそらく、1848年の動乱で、ヴェルディの思惑がずれてしまったのだろう。間違いなく、ヴェルディはミラノにいた弟子のムツィオを代理としてトリエステに遣わすつもりでいた。しかしムツィオは、動乱に参加したため、騒動が鎮圧された後はスイスに逃亡せざるを得なくなり、トリエステに向かうことができなくなってしまったのだ。一方、《海賊》の初演が10月にずれ込んでしまったため、ちょうど《レニャーノの戦い》(1849年1月27日、ローマで初演)の作曲に集中していたヴェルディは、トリエステに行くわけにはいかなかった。 初演の出演者は、以下のような人たちだった。 コルラード…ガエターノ・フラスキーニ グルナーラ…マリアンナ・バルビエーリ=ニーニ セイド…アキッレ・デ・バッシーニ メドーラ…カロリーナ・ラパッツィーニ セリモ…ジョヴァンニ・ペトロヴィーキ 宦官…フランチェスコ・クッキアーリ 奴隷…ステーファノ・アルバナッシーキ マエストロ・アル・チェンバロのルイージ・リッチが上演の監修にあたり、コンサート・マスターのジュゼッペ・アレッサンドロ・スカラメッリが指揮に当たっている。 ガエターノ・フラスキーニ(1816−87)は、1840年代から1860年代にかけて、全ヨーロッパで活躍したテノール。力強い声の持ち主だったようである。ヴェルディはフラスキーニを非常に高く評価していた。ヴェルディの初演では、《海賊》の他に、《アルツィーラ》(1845年、ナポリ)、《レニャーノの戦い》(1849年、ローマ)、《スティッフェーリオ》(1850年)、《仮面舞踏会》(1859年、ローマ)で歌っている。また、《群盗》(1847年、ロンドン)のカルロは、フラスキーニが初演で歌うという前提で書かれた役である。その他、《運命の力》までの主要なテノール役はあらかた歌っている。 マリアンナ・バルビエーリ=ニーニ(1818−87)は、1840年代から1850年代半ばまで活躍したソプラノ。彼女は何といっても初稿の《マクベス》(1847年、フィレンツェ)の初演でマクベス夫人を歌ったことで名高い。他のヴェルディの初演では、《二人のフォスカリ》(1844年、ローマ)でルクレツィアを歌っている。彼女の夫は、アレッサンドロ・ニーニ(1805−80)という作曲家。 アキッレ・デ・バッシーニ(1819−81)は、ドニゼッティの作品で名を挙げたバリトン。ヴェルディの初演では、《海賊》の他、《二人のフォスカリ》(1844年、ローマ)のフランチェスコ、《ルイーザ・ミラー》(1849年、ナポリ)のミラーを、さらに《運命の力》初稿(1862年、ペテルブルグ)のメリトーネを歌っている。 カロリーナ・ラパッツィーニ(1825頃−?)に関しては、あまり詳しいことは伝わっていない。1849年に、スカラ座でベッリーニ《カプレーティとモンテッキ》のロメオを歌っている。 上演の監修を務めたルイージ・リッチ(1805−59)は、ナポリ出身の作曲家。弟のフェデリーコ・リッチとの共作したオペラ《クリスピーノと代母》(1850年、ヴェネツィア)がよく知られている。また、1831年にスカラ座で初演された《キアーラ・ディ・ロゼンベルグ》は、数年間で70回も上演される人気作であった。彼は1838年からオペラ作曲家としての活動を一時停止し、トリエステを拠点として、マエストロ・アル・チェンバロ(歌手に下稽古をつけて、必要な場合は楽譜の改編や追加を行う担当)を務めていた。 初演の歌手たちは、フラスキーニ、バルビエーリ=ニーニ、デ・バッシーニとかなり強力だった。にもかかわらず、初演は不評で、わずか3日だけで終わってしまった。10月29日付けの新聞、イル・コスティトゥツィオナーレの評は、「パリに長期滞在し、結構な量の英国ギニーとたくさんのナポレオン金貨をルッカ社から懐に入れた」とヴェルディに嫌味を言っている。 ヴェルディもムツィオも不在であれば、いかに歌手が良かろうと、上演の質には限界があったろう。また作曲者不在の初演は、トリエステの聴衆には少なからず無礼に感じられただろう。初演の不評は、作品の質が悪かった証明だというのは、近年は退けられつつある意見だ。 再演は少し間が開き、まず1850年のサルデーニャ島のカリアーリ歌劇場という僻地での上演があった。その後の主な再演は、1852年2、3月にミラノのカルカーノ劇場。同年9、10月にトリノのカリニャーノ劇場。1853年2月12日からヴェネツィア、フェニーチェ歌劇場。1854年7月にナポリ、サン・カルロ歌劇場。はっきりと成功を収めたのは、ミラノの上演だけで、ナポリの上演に至ってはひどい失敗に終わってしまった。 おそらくヴェルディは、死ぬまで《海賊》を見ることはなかったと思われる。 ・原作と台本 原作は、英国の詩人、ジョージ・ゴードン・バイロン(1788−1824)の代表作『海賊』である。バイロンは2年の間地中海地方へと旅をした後、その体験を元に、1812年3月に『チャイルド・ハロルドの巡礼』を発表、爆発的な人気を得る。その翌年の秋に書かれたのが『海賊』である。偶然にも、ヴェルディが生まれた(1813年10月10日)まさにその頃に書かれた作品である。知的で憂鬱な雰囲気を醸しつつも反逆的な海賊、彼をひたすら待つ恋人、命を賭けて彼を救う女は、女性関係に奔放だったバイロンの私生活を反映しているのだろう。バイロンの『海賊』は、太田三郎氏の訳が2005年に岩波文庫から復刊しており、簡単に読むことができる。またバイロンの生涯についても、その巻末の解説に詳しい。 ピアーヴェが台本を書く際に参考にしたのは、ジュゼッペ・ニコリーニのイタリア語訳(1824年)だったと推測されている。オペラの常として、ピアーヴェは台本を書くに当たって、原作に短縮と改編を施しているが、しかし全体としてはかなり原作に忠実で、詩句をかなりストレートに受け継いでいる箇所も見受けられる。オペラの中で原作に見当たらないのは、第2幕冒頭の後宮の場面くらいだろう。また、幕切れは、オペラのエンディングに適すよう変えられている。バイロンの原作では、グルナーレ(=グルナーラ)の最後は分からない。メドラ(=メドーラ)は、コンラード(=コルラード)が館に帰ったときには既に息絶えている。その後コンラードは、人知れず姿を消し、行方も生死も分からないままとなる。一方、メドーラの死因がわからないという点では、原作も台本も同じである。 ・音楽 作曲の初期にヴェルディが見せた、バイロンの『海賊』への愛着は、かなりのものだった。オペラ《海賊》には、ヴェルディが題材に入れ込んだときの「冴え」が随所に光っている。しかし、製作期間が中断を挟んで2年かかったことから、必ずしも全ての部分が優れた傑作という訳にはならなかった。 意欲的な音楽ということであれば、既に前奏曲が当てはまる。不協和音を効果的に多用したこの音楽は、オペラの開始早々に、聞き手に強烈な印象を与える。この音楽は、第3幕の嵐の音楽から採られている。 その第3幕に優れた音楽が集中している。 第3幕のグルナーラとコルラードの二重唱は、シェーナからして際立って充実した音楽だ。低弦の侘びしい音を活用して打ちひしがれた空気を醸すのは、後のヴェルディの得意技になるが、既にこのシェーナで見事な効果を挙げている。二重唱本体は、まずかなり語り口調に傾いた歌で始まる。グルナーラの心情にしたがって伴奏が刻々と変化を見せている。続く嵐の音楽が、前奏曲の素材だ。グルナーラがセイドを殺して戻って来た時の弦の緊迫した音楽も素晴らしい。 続く第3幕フィナーレも、音楽は非常に充実している。コルラードがメドーラに、グルナーラの身の上を語る三重唱は、簡単な素材でも、様々なニュアンスを与えることで、微妙な心理を描くというヴェルディの特徴が、よく現れている。メドーラの〈コルラード様、こちらへ〉も前奏曲の素材の一つになっている。この部分は、話としてはメドーラとコルラードの対話が軸になっているが、プリマドンナであるグルナーラの音楽も引き立つように作られているのが面白い。 問題があるとすれば、どちらの場面でも一つの状況がコンパクト過ぎて、すぐに次の状況に移ってしまうことだ。この二箇所の音楽は、1846年に製作が中断する前に既に書かれていたと推測されることが多い。おそらく1848年にヴェルディが自発的に完成させていたなら、もっと丁寧に書き直したのではないだろうか。 全曲中、最も有名な曲は、第1幕のメドーラのロマンツァ〈私は陰鬱な想像を〉だろう。情熱的な前奏からして、ヴェルディの筆の充実が感じられる。メドーラはセコンダドンナ役なので、高いハ音が用いられている以外には、必ずしも音楽的難易度は高くない。しかし、ハープの優美な伴奏と、イ短調の陰鬱な想い、そして付点音符が多く用いられた軽やかな歌、と多用な要素が盛り込まれていることで、独特の美しく翳った魅力を打ち出すことに成功している。 第2幕に置かれたグルナーラのアリア〈囚われの部屋から 飛んで行く〉は、メドーラに比べると技術的にはずっと高度だ。カンタービレ部分は、6/8拍子のリズムに乗って、グルナーラの自由への憧れが歌われる。優美で装飾的な歌唱が効果的だ。カバレッタ部分の〈たった一つの希望が〉では、旋律を休符で切ることで、グルナーラの抑圧された想いが描かれている。 コルラードのアリアは、第1幕の冒頭部分に組み込まれている。〈全てが微笑んでいるかのようだった〉のアンダンテ(カンタービレ部分)は、一見すると優美な旋律を軸に据えた伝統的な音楽だが、途中からコルラードは歌から離れ、16分音符を多用した語り口調になる。その間、オーケストラは、歌の旋律を奏しつつ、弦のピッツィカートが激しく上昇下降を繰り返す。突然音楽は激しくなり、そしてフェルマータ付きの総休止で我に返る。コルラードは、過去を思い返しているうちに、当時の傷ついた心情そのものを蘇えらせてしまったのだ。ヴェルディは、この僅か10小節で、コルラードが単なる野蛮な海賊ではなく、深いトラウマを背負って生きている人物であることを示している。 セイドには、第2幕の讃歌〈アラー万歳!〉と、第3幕のアリア〈ついに あの海賊を捕虜にした!〉と、二つソロの音楽が与えられている。しかし、いずれも当時のヴェルディとしては、ことさらに優れたものとは思えない(第3幕のアリアでは、むしろシェーナの方が、工夫が見られる)。ことに、第3幕のアリアのカバレッタ部分〈お前の最期は近づいた〉は、《アッティラ》(1846年、ヴェネツィア)の第2幕でエツィオが歌うアリアのカバレッタ〈私の運命は投じられた〉と酷似している。旋律も、リズムも、途中で短調に振れる点も、そっくりだ。《アッティラ》はトリエステでも、1846年の秋のシーズンに同じグランデ劇場で上演されている。《海賊》が初演される2年前であるから、類似に気付いた観客も少なくなかったろう。 《海賊》にはパリのオペラからの影響もいくらか見られる。所々に見られるブラスの強い表現にはグランドオペラの特徴が感じられる。また、第3幕のグルナーラとコルラードの二重唱には、部分的にマイアベーアからの影響が窺える。これらは、《ジェルザレム》を発表するなど、パリで様々に音楽体験をしたことで、ヴェルディが自然に取り込んだ感覚だろう。 ・あらすじ 第1幕 エーゲ海に浮かぶ海賊の島。海賊たちの勇ましい歌が聞こえてくる。頭のコルラードは、彼らの歌を頼もしく聞いている。彼はふと自らの過去を回想する。恋に破れ、世間から見放された彼は、海賊に身をやつしたのである。手下が、ギリシアの密偵から送られてきた手紙を持って来る(※1)。コルラードは、夜になったら出帆すると命令、しかも彼自身が直接指揮を執るというので、海賊たちは雄叫びをあげる。 古い塔の部屋。コルラードの恋人メドーラは、ハープを弾きながら、恋人を心配して待つ長い日々の辛さを歌にする。コルラードが現れ、すぐに出発することになったと告げる。メドーラはコルラードを必死で引き止めようとする。コルラードは、必ず生きて帰って来ると答える。出帆を告げる大砲が響く。コルラードはメドーラを振り切るように出て行く。 ※ 手紙の内容は、バイロンの原作でも明かされていない。 第2幕 パシャ(※)であるセイドの後宮。女奴隷たちがグルナーラの美しさを誉めそやし讃えている。彼女はセイドから寵愛を受けているが、しかし彼女はセイドを憎み、自由に憧れていた(台本には明記されていないが、グルナーラはどこかからこの後宮へと攫われてきたのだろう)。彼女は、セイドの催す戦いの前祝いに呼び出される。 港。回教徒の兵士たちが、海賊の襲来に備えている。セイドが現れ、皆でアラーの栄光を讃える。一人の奴隷が、海賊から逃げて来たという回教徒の修行僧を導いてくる。セイドは敵の様子を聞き出そうとするが、修行僧は牢獄に繋がれていたので何も分からないと答える。突然、船火事が起きる。修行僧はコルラードだった。海賊たちとセイドの軍勢との間に、激しい戦いが巻き起こる。後宮から女たちが助けを求める声が聞こえる。コルラードは手下と共に彼女たちを助ける。しかしその間にセイドたちは形勢を立て直し、海賊たちを圧倒する。コルラードは捕らえられる。セイドから脅されても、コルラードは激しく敵意を剥き出しにするばかりだ。彼に助けられた奴隷女たちは、セイドに慈悲を願う。グルナーラは密かに、コルラードを助ける決意をする。 ※パシャとは、トルコの高位の称号。時代によって示すものは若干変わるが、オペラでは「将軍」に近い意味だと思われる。 第3幕 城塞。セイドは一人、グルナーラへの愛と、彼女がコルラードを愛しているのではないかという疑念の間で苦悩している。グルナーラが呼び出される。セイドは彼女に、コルラードは明日にも処刑されるだろう、と探りを入れる。案の定、グルナーラは、コルラードを生かしたままにして身代金をせびってはどうかと提案する。彼女がコルラードを愛していることを確信し、セイドは激しく怒り、グルナーラの命も自分次第だと警告する。 塔の中。コルラードは鎖につながれている。彼は島に残してきたメドーラに思いを馳せる。グルナーラがやって来る。彼女はコルラードを助けるため、手下たちを買収し、船も用意してあることを告げる。しかしコルラードは、卑怯な逃亡はしないと拒む。グルナーラは覚悟したように、一旦立ち去る、雷が短い間、激しく猛る。グルナーラが戻ってくる。彼女は、眠っていたセイドを殺して来たのだ。コルラードは、自分を解放するために殺人まで犯した彼女を救うためにも、ここから逃亡することにする。 海賊の島。メドーラはコルラードの帰りを待っているが、彼が既に死んでしまったと思うようになっていた。水平線に帆が見え、海賊たちが騒ぎ出す。コルラードの船が戻って来たのだ。メドーラとコルラードは抱き合って喜び合う。メドーラは、コルラードを救ったグルナーラに感謝する。グルナーラは、コルラードを愛していたことを明かす。一方、ずっとコルラードの帰りを待ち続けたメドーラは、著しく衰弱していた。とうとう彼女はコルラードの腕の中で息絶える。絶望したコルラードは海へ身を投げ、それを見たグルナーラは悲鳴をあげ倒れてしまう。幕。
あらすじ
あらすじ
第1幕
Carreras,Norman,Caballe
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